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  しむかっぷでむかしむかしあったこと 
「アキアジ釣り」 会田静雄さん(1935(昭和10)年生まれ)
 
  会田さんは昭和十年、ニニウの生まれ。昭和三十七年の水害で田畑をあきらめ、翌年二十八歳の時に思い切って中央へ出るまでは、ずっとニニウで暮らした。「昔は苦労したねぇ。何の用を足すにもまず山を越えて行かなきゃ何にもできなかったんだから。」と振り返る。

 家はそれほどの面積じゃないが農家で、ほかに馬仕事もして三頭も飼ってたから、畑ではまずえん麦なんかの馬の餌を作って、家で食べるのにいも、イナキビなど、商品としては大豆、小豆を主に作っていた。水田では家で食べる分だけの米を作っていたが、下に兄弟が生まれて人数が増えてくると米は足りなくなったので、小豆を混ぜて炊いた赤飯のようなのをいつも食べた。
 村では数少なかった水田は親父がまだ子どもの頃、まごじいさんの時代に作ったようで、伯母さんたち(父親の姉妹)から、「水田を作るのにもっこを担いで怒られながらやったもんだ。」という話を聞いたことがある。水田の草取りをするのも、その頃は農薬なんか使わないで全部手作業だったから水がきれいで、ニニウ一帯にたくさん蛍がいて、今と違ってちっとも珍しいものじゃなかった。農薬を使うようになったのは中学校を卒業した後だったけど、その頃から減ってきたんだろう。
 親父が兵隊に行って二、三か月で終戦になった。大人の男のいないその夏は、おふくろが畑起こしなんかもやって、自分もやったけど十歳の子どもには重くてうまくいかず悔しかったのを覚えている。
 親父は逓送(郵便配達)をしていて、ニニウから中央へ抜ける唯一の生活道路だった片道三里半(十四キロ)の鬼峠を、一日おきに歩いて往復した。朝、旅館をやっていた三船さんの家の横にあるポストを開け、手紙を逓送のマークの付いた鞄に入れて取ってくると、それから朝ごはんを食べて八時には出発した。そして、帰りはその鞄にニニウの二十数軒分の新聞も入れて背負ってくる。帰り道沿いの家に新聞や郵便物を届けながら、道のいい時期だったら夕方の四時頃には帰って来ていた。買い物がある時などは一緒に行ったこともあったけど、ひどい峠道も親父は慣れているから早くて、こっちは時々走っては追いつきしながらついていった。逓送用の鞄はいつも満杯だった。
 中学生の頃は、ちょっとしたものだったら裸馬にまたがって、中央まで買いに行くこともあった。おかずに買ってくるのは干し魚や缶詰めで、冷蔵庫があるわけじゃないから生のものは持ってこなかったね。冬は馬そりで、空荷だと中央まで二時間半、五俵くらい積むと道がよくても三時間半から四時間はかかる。夏の馬車は下りが遅く、馬そりよりも片道一時間は多くかかった。荷を積んで狭い道を急いだりすると、勾配のあるカーブで振られて荷台をひっくり返してしまう。三回、四回ひっくり返してやっと帰ってくる、馬車でも馬そりでも何とかやっとという、鬼峠はそんな道だった。
 小学校に入る頃までは靴なんてそうなかったから、履いても手編みの草履。笹薮でも裸足で入って行った。冬は爪籠を、そのままだと冷たいから足に布を巻いてから履いた。長い時間履いて歩いていると、自分の足の熱で爪籠に付いている雪が解けちゃって中にしみ込んでくるから、学校へ着いたら薪ストーブで乾かしておいて、教室では冬でも草履だった。ゴム靴を履いたのは、二年生か三年生の夏だったけど、当時のは今のとは違うから中が蒸れて蒸れて三日で底がはがれてしまった。そんなようなものだった。
 中学校へは、子守りをしながら通った。畑仕事の邪魔になるまだ学校へ上がる前の兄弟たちを、中学校へ一緒に連れて行った。授業を受けている間、教室の隅の方で弟たちが遊んでいた。



 夏の暑い間は、毎日川へ遊びに行った。鵡川の事はみんな大川と呼んでいて、学校の裏の川をペンケ川と呼んでいた。大川にはまだ橋がなく、現在の吊り橋のある場所の対岸には大人が四、五人は乗れるほどの大きな石があった。石の下は深さ三メートルくらいだっただろうか、けっこうな深さで、飛び込みをしたり、白い石ころを投げ入れて、深く潜って取ってこれるかなど競って遊んだ。水に入りっぱなしで冷えてしまったら、砂原になっている向かい側へ渡って砂を浴びて身体を温め、そしてまた泳いだ。学校も休みとあって、七月中旬からお盆過ぎまではもうずーっと水浸しの一か月だった。
 今だったら一日かかってもなんぼも釣れないけど、その頃だったら一時間かそこらで、もういらんってほど魚が釣れた。川をのぞけば泳いでるのが見えるくらいいたから、柳の枝に大きな釣り針をつけただけの一本カギやヤスでも捕れた。雨上がりで少し川が濁った時は、網で追い込み漁をやった。大人と一緒に、草や木が川面を覆っているような所に網で待っていて、上流から二、三人で追い込む。ウグイ、ヤマベ、ドジョウ、カジカ、それに十センチくらいのカニも捕れた。一斗缶の上を切って作ったバケツにたくさん入れて帰った。
 昭和二十九年、洞爺丸を沈めたあの台風十五号をきっかけに、三、四年は、アキアジ(鮭)が大量に上がった。ペンケ川に溢れるほど上がってきた事もあった。川沿いに腰掛けて、三つカギのついたアキアジ用の待ちカギを川の中に入れる。一番上のカギから手元に細い針金が引っ張ってあり、アキアジがこれに触れた瞬間、勢い良く手前に引く。秋の川底には落ち葉が多くて、よくこれにだまされた。好きな人は夕方五時頃畑の仕事が終るか終らないかといううちから行き、夜は寒いので焚き火をして、そこでとうきびやカボチャを焼いて食べながらやった。その時期になると何人もの人が河原に出ていて、真っ暗な川沿いにぽつぽつと焚き火の明かりが見えた。アキアジはその後もぽつぽつと上がってはいたが、鵡川支流で穂別ダムの工事が始まり、山の木がすっかりなくなってしまった昭和四十年代からほとんど、見られなくなった。
 小学校五、六年生の頃からだろうか、中央にできた劇場に演劇や映画を観に行った。行くか行くかと声をかければ、おう行くわと十五、六人にもなって、夕方農作業を終えてさっとご飯を食べたら、間に合うようにとみんな小走りに鬼峠を二時間で越える。外灯なんてもちろんないけど、ランプも持たずに月明かりの中を行ったんじゃなかっただろうか。暗いから何度もつまずくし、十時過ぎまで観終ってまた走って帰ってくると夜中の一時を過ぎていた。道のいい夏の間だけの楽しみで、流石に冬は行けなかった。
 会田さんがニニウにいる間は、電気はなくランプでの生活だった。八分ランプという芯が太くて明るいガラス製のランプをどこの家でも使っていた。ニニウに電気が通じたのは会田さんが離れて三年後の昭和四十一年。鵡川沿いの道も昭和三十五年には開通して鬼峠を越える必要もなくなっていた。「テレビも見れるし道もちゃんと通って便利になった。でもそれとは逆行するように山から木を切り出す仕事が減って、造材で入っていた人たちが離れ始めた。」営林署がなくなるのを最後に、昭和五十年には新入小中学校も廃校になった。現在では一戸が暮らすのみだ。
 ニニウの会田さんの家には、今も物置きが残っていて、「つぶしちゃったら格好わるいから」と、この冬も一度雪下ろしに行った。ニニウでは七月の終わりになると、今も昔と同じ暗闇で蛍が光りを放っている。(2003年2月取材)
 
  ニニウの自宅跡で当時の様子を語る会田さん(2009年2月鬼峠フォーラムにて)
 
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