「エゾリス獲り」 小野寺忠さん(1922(大正11)年生まれ)
小野寺さんは大正11(1922)年生まれ。男6人女3人の9人兄妹の3男として下トマムで生まれ、小学校卒業まで下トマムで暮らした。父勇治さんは山仕事の飯場手伝いなどに従事していたが40才の時に失明。母ソヨさんは畑の出面取りや造材山の雪ハネなどをやって、9人の子供を誰一人家から出さずに女手一つで育て上げてくれた。補助もなにもない時代に、大変な苦労を良く我慢してやってくれたと、今考えても頭が下がる思いだ。 当時、大川(鵡川本流)や沢では山魚女が良く釣れた。駅逓(えきてい=旅館と郵便を兼ねた施設)の山下さんに頼まれて、お客さんの夕ご飯用の山女魚を目の見えない父親と一緒に釣りに行った。「そこは深いよ」「そこは危ないよ」と父に教えながら行くのだが、目は見えなくても父親と一緒にいるというだけで、山深い場所での釣りも「おっかなくなかった」。学校近くの一線の沢、三線の沢でも釣れたが、特にホロカの沢では良く釣れた。1日かけて全部釣っても、次の日にはまた同じように50~60匹も釣れた。型も大きく、魚を入れるビクが一杯になると小学生には重かった。父親は目は見えないが体は健康だったので、いつも重いビクを持ってくれた。釣った山女魚は旅館で焼き干しにされ一斗缶に入れられて保存食となった。山と積み上げられた一斗缶を見せて駅逓の山下さんは「おかげで冬のおかずに困らないよ」と言ってくれた。お金は両親へ直接渡されていたようで、1匹いくらだったか記憶にはない。当時は今よりもずっと水量が多く、ホロカの沢と大川の合流点より下流は危険なのであまり行かなかった。