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  しむかっぷでむかしむかしあったこと 
「ハローを枕に」 大谷サダさん 1909(明治42)年生まれ
 

 「自分でも馬を使って畑起こしたりしたよー。その後ハローをかけている途中疲れちゃって、ハローを枕にしてその場で眠ったのを覚えてるわ。」と笑う大谷サダさんは明治四十二年生まれ、今年で九十四歳。
 大谷家は早くから水田で米を作り始め、小作三世帯を抱える大きな農家だった。村内には水田が少なかったので、隣近所の人が升を持って米を買いに来た。畑では大豆、小豆、亜麻を主に作り、馬、豚、山羊、綿羊、うさぎ、鶏と、いろんな家畜を飼っていて食糧は自給に近い生活だったので、食糧難の時代にありながら米以外の穀物を代用した記憶があまりない。それでも豚の肉を食べるのは年越しのごちそうとして年に一回程度、うさぎや鶏でもやっぱり肉は特別な時に食べるものだった。普段のおかずは納豆と卵焼きばかり、どちらも家の畑で穫れる大豆、家の鶏が生んだ卵で作れる。今のように店へ行けば肉や卵が手軽に手に入るという時代ではない、山羊が乳を出し、鶏が卵を生むのは毎日楽しみであった。綿羊の毛を刈ると綿屋に出し、綿の状態にして家に戻してもらう。それで布団を作ったり、糸に紡いで、太くなったり細くなったりしてる毛糸だったけどセーターを編んだりした。
 雪の解けはじめる頃、地域でまとめて大量のニシンを買い付け、代表が金山駅まで取りに行った。各戸で糠に漬けたり身欠きにしたりして夏の間中食べられるようにと何箱、何十箱と買い求めたので、今では高価なものになってしまった数の子も、塩漬けにして瓶にどんとあったものだ。陸の孤島と言われた占冠では、一年に一度の待ち遠しい海の魚だった。
 ドジョウやカジカ、マスなどの川魚は、小さな子どもでも簡単に捕れるくらいたくさんいた。もっとも川の水量は今よりもずっと多かったのだが、家の横の小川とも言えない水路にまで魚が泳いでいた。当時、これも立派な食糧である。川の魚も蛍もそこら中で見られたが、水田で農薬を使い出したら、ぱたっといなくなってしまった。

 
 「今朝、岩渕ハナさんにもお話をお伺いしたんですよ、お友達だそうですね。」と訊ねると、「そう、岩渕さんに会ったの?一つ違いでね、学校一緒だったの。岩渕さんと伊藤キヨさんと私、三人で仲良しでね。」と表情が輝いた。「小学校の先生は植村先生?」「そう、植村先生。若い男の先生だったよ。」九十年近くも昔の占冠小学校の風景が、サダさんの目の前には鮮やかに浮かんでいるのだ。校庭には子どもが何人も手をつないでやっと一周するような大きなニレの木が生えていたという。(2003年2月取材)

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