「大晦日」
原 和枝さん「大晦日」
和枝さんは、昭和十一年、富良野の学田生まれ。家は稲作農家で水田に囲まれて育った。富良野高校の商業科を卒業し、農協で事務をしていた十九才の時に、縁談が舞い込んだ。和枝さんは十五才で母を亡くしており、父は自分の責任を果たすかのように次々に姉妹を嫁がせていた。
縁談は当時木工場や造林、土木、運送と幅広く事業を行っていた字占冠の原置次郎さんのひとり息子真一さんとのものだった。真一さんは、上下三人ずつが全て女という七人姉妹の中で、ただひとりの跡取り息子。当時は金山営林署の勤めをやめて、父の事業を引き継ぐ修業中であった。真一さんの義母かめよさんは夫の事業を手伝いながら、村初めての女性村議会議員をつとめる豪傑だった。そんなかめよさんのお眼鏡にかなって、和枝さんは原家に嫁ぐ事になる。親が決めた事に文句を言えるような家ではなかった。
お見合いを富良野の実家で済ませた後、初めて占冠を訪れた。
「金山まで汽車できて、そこからはトラックで金山峠を越えたの。バカ曲がり(何度も繰り返し大きなカーブが続く急勾配の道で、あまりにひどいので「バカ曲がり」と呼ばれていた。)にびっくりしちゃって。どんな山奥に連れていかれるのかと思ってね。おしゃれしてスカートなんかはいてたから、あれは夏だったんだね。」
結婚式は十二月に富良野の神社で、披露宴は字占冠の木村旅館で盛大に行われた。昭和三十年、和枝さん二十才、真一さん二十六才だった。
和枝さんが嫁いだ当時、義母は商談や接待で忙しく、和枝さんは一日のほとんどを台所で過ごした。当時の台所は日当たりも悪く、とにかく寒い。かたわらのポンプからしたたる水が凍ってつららになるような所だった。子育てと家事で辛い日々が続いたが、嬉しい事もあった。子どもが生まれるたびに、厳しかった実家の父が外套を着て、バスに乗って、お餅を持ってきてくれた。「お乳が出るようにって。それはうれしかったですよ。」
結婚して間もなく義父は病を患い、四年後には亡くなってしまう。真一さんは多い時は百人以上を使い、事業を引き継いでいたが、昭和三十七年の冬、「あの年なら忘れられない。あの冬は大雪に次ぐ大雪でね、山の現場へとっても行けたもんじゃない。何十人も人出をかけて一所懸命除雪しても、後から後から降って降って、道がすぐに埋まってしまうの。」結局この冬は大赤字となってしまった。当時は材を納めても、支払いは手形がほとんどで半年たたないと現金にならない。仲間内で手形の貸し借りをしてなんとかしのいできたが、ついに資金繰りが行き詰まった。
暮れの三十一日、原木工場では十数人の山子や馬追いが賃金の支払いを待っていたが、富良野の銀行へ金策に行った真一さんはなかなか帰って来なかった。待つ方もその金がなければ年を越せないのだ。夜八時頃まで待ってもらったがそれでも帰ってこないので、床に頭をつけて謝り、代わりに義姉がやっていた店の商品から年越しの品物を渡して、とりあえず引き上げてもらった。真一さんは、元日の朝に帰ってきた。金山峠までは来たものの帰れなかった、金策に失敗しては、あわす顔がなかった。
この後木工場を手放し、真一さんは残った一台のトラックで裸一貫、運送業を始めた。冬だったらお湯や薪ストーブで一時間は温めてやっとエンジンがかかるようなトラックだった。それからの四十年、夫婦はとにかく一所懸命働いた。「今になったら、子どもたちがどうやって育ったのかと思うの。もう夢中でしたね、夢中で過ごしてきて…。」何年間もまともに話をする暇もないくらい必死になって働き、借金の担保にとられていた山を取りかえしてからは、それまでできなかった山の手入れにも精を出した。何ごとにも好奇心が旺盛で、バイタリティあふれる真一さんの人柄に、和枝さんはいつも元気づけられた。
平成五年、直前まで議員だった同じ集落の中村要さんから、「あなたの母さん(かめよさん)から引き継いだ議員だから、今度はあんたが引き継ぎなさい。」と言われて、議員となったが、任期半ばの平成七年六十六才で亡くなった。
家の裏にある桜の老木が今年も変わらず咲くように、自然は何も変わらないけれど、この五十年良い時も悪い時もあった。「今が悪いからといって落ち込む必要はないですよ。きっとまた良い時が来る。息子たちには、いつもそう言っているんですよ。」いつもの昼下がり、原商店のレジには近所の人々が集う。一緒にお茶を飲み、つかの間の休息を楽しむ。みんな和枝さんの元気を分けてもらいに来るのだ。(2003年2月取材)