「友の会」
富田スミ子さんと中島治子さん「友の会」
中央地区の婦人会「友の会」ができたのは、戦後間もない昭和二十四年。前身は愛国婦人会だった。
お話を伺った中島治子さんは、昭和二年樺太生まれ。終戦とともに引き上げてきて金山に住み、結婚で占冠へ来たのを機に昭和二十八年から会へ参加。富田スミ子さんも同じ昭和二年に中央で生まれ、高等小学校を卒業後、札幌の洋裁学校へ。卒業後は志願して豊平の軍需工場で働いき、昭和二十三年に結婚。昭和二十九年から会へ参加している。
中島さんと富田さんが入会した当時は、会が出来てから四、五年で会員数も六十名にのぼり、活動もたいへん盛んだった。「友の会」の主な目的は「教養を高めお互いの親睦を深め、社会奉仕と郷土の文化向上に努める」事。二十代から五十代の婦人ばかりが大勢で行動するのだから、周囲から見ればかなり派手だった。先輩方は厳しかったが、中島さんや富田さんも指導を受けながら多くの事を学んでいった。
活動資金調達の為、会では色々な事をした。森林組合の総会では百人以上の仕出し弁当を皆で工夫して腕をふるった。また苗畑の草取りや、苗床づくりの出面、自作自演の演劇上演など、色んなアイデアを出し合ってやった。そうして集めた資金で、色々なものを寄贈した。小学校へ贈った袖幕と緞帳は、買ってきたえんじ色のビロードに、夜皆で集まって金色の糸で校章や「寄贈友の会」の文字を刺繍したもの。中学校へはミシンやピアノを贈り大変喜ばれた。富田さんが忘れられないのは、字占冠の演芸会へ出張で演劇を出した時。中央から子どもをおぶって四、五人で歩きながら、配役や台詞回しなどを練習した。たしか「赤とんぼ」という寸劇だったと思う。
戦後の混乱期で社会基盤がまだ整備されておらず、自分たちでなんでもやらなければならない時代、村内各地区にあった婦人会の担う役割は大きかった。みな忙しかったが、一所懸命に頑張った。やりがいのある仕事が多かった。
また、会の大きな楽しみとして、年一度の旅行があった。当時の占冠は陸の孤島で、外の世界を見る事はまれであったし、自分たちで旅行する事などなかった時代。金山駅の斉藤さんが、旅行の手配などはすべてしてくれた。金山駅には止まらない急行も特別に止めてもらい短い停車時間であわてて乗り込んだ。旅行先は洞爺湖、登別、層雲峡、定山渓、阿寒湖など。中島さんは入会して初めての旅行で洞爺湖に行った時、小さな子どもを抱えていったのだが、おむつをどこで洗ってどこに干したら良いか、そればかりを考えていてろくに楽しめなかった。当時の布のおむつは、分厚い丈夫なものだったので、ただでさえ乾きが悪かった。ほかの旅行では、列車の窓から干していた人もあった。
お土産を買うのも楽しみの一つで、もちろん宅急便などない時代。「いやいや占冠の女は力持ちだな」とはやされるほど、大きな荷物をかかえて帰った。体は改札を通っているのに荷物がひっかかって前に進めず、大笑いになった。一所懸命かついで帰って子どもにあげたら、「これ農協で売ってるよ」と言われてショックだった事もある。
比較的最近の話だが、富田さんは青森十和田湖の満員の遊覧船で、添乗の斉藤さんから袋を渡された。「大事なものだからしっかり持っていて。」と胸の前で両手で持たされた。そのまま、斉藤さんは人込みの中へ消え、船が出発。満員の人込みに押されて、袋が潰れそうになった瞬間「わっはっはっはっは」と袋から突然笑い声が…。当時観光地で流行った「笑い袋」だったのだ。知らなかった富田さんはびっくりして真っ青になり、倒れそうになった。「周りに人がいなかったら倒れていたわ。」と笑う。会の面々は旅行を楽しみ、同時に外の世界の情報を占冠に持ち帰った。
友の会が毎年発行している会報「友の会だより」の表紙には、必ず同じ竹の絵が描かれている。「毎年毎年区切りがあり、発展性がある」として昭和三十年当時会長だった原逸子さんが決めたものだ。地域のつながりが益々重要になっている現在、竹の節は五十を超えた。さらなる成長を、と皆さんの声が弾んだ。
ご一緒にお話をお伺いした皆さん
赤坂敏子さん、横川和子さん、原 清子さん、水上富美さん