「馬と共に生きて」
熊崎國良さん「馬と共に生きて」
「ヤスでマスを突いて引き上げたら、その先にヤマベがついてることがあるくらいいたんだから。マスはいったん炭火で軽く焼いて干したのを、甘く煮るのが一番おいしいんじゃないかな、今でもそう思うよ。」
「青年団で素人芝居を見せてたんだけど夜遅くなるしょー、練習してて。それで、次の日豆摘みの最中、居眠りして怒られたりしてね。」とひとつひとつ思い出すようにゆっくり話してくれた熊崎國良さんは、昭和三年生まれの現在七十四歳。
双珠別の農家に生まれ、昭和三十一年の結婚を機に分家して、生家から数百メートル離れた今の場所に移った。今も当時建てたその家に住んでいる。
車のない当時、馬は貴重な動力だった。夏の畑仕事にも冬の山仕事にも使える大きなばんば馬を、どの農家でもたいてい二頭、多いところでは四頭くらい持っていた。双珠別神社からダムへ向かう道沿いに、当時三十軒ほど農家があり、双珠別川の上流、最後の集落がある辺りに共同で馬の放牧地をつくっていたのだが、ある時、放牧していた親馬が熊にやられて、子馬だけが何キロも走って戻ってきたことがあった。馬は自分の家を忘れない動物だけど、その子馬は生まれてからなんぼも家にいなかったのによく覚えていたものだと、改めて馬の賢さに感心した。
馬が好きで二、三年で次へと買い替えた。草ばんばで中央やら日高、山部まで行って、優勝したこともある。
当時は草ばんばがとても盛んで、農作業が落着く九月頃に、中央の千歳橋のたもと、川沿いの大きなグラウンドで行われた草ばんばには、百頭近くが集まった。ほかの町村から泊りがけで来る人や保導車に応援の家族全員を乗せて来る人、それに屋台も出てお祭りのようなにぎわいで、なんと馬券売り場ができたことまである。ほかに娯楽がないから面白かったんだろう、相当熱が入っていた。
二つの障害がある一周二百メートルのコースを、馬の大きさによって五百キロから千キロの土俵を積んだそりを引いて六、七頭で競う。みんな自分の家族が出る時は、興奮して障害のすぐ横まで行き、大声で応援した。その頃、村で一番大きな行事だったんじゃないだろうか。
初めてバイクを持ったのは、三十歳を過ぎてからのこと。もちろん遊びではなく立派な交通手段として、メグロの百二十五シーシーを中古で買った。
ある運動会の日、家内が双珠別林道を抜けてトマムまで行ってみたいと言い出した。当時は、農作業で毎日が忙しく、林道を通ってトマムまで行くような暇が、なかなかなかったのだ。「バイクだったらたいした時間もかからんべ。」とお昼までには戻るつもりで、二人乗りで出かけた。しばらく走って林道の中程まで来た時、大きな音がした。尖ったバラスでパンクしてしまったのだ。通りかかった造材のトラックに乗せてもらって帰るはめになった。
また、白金温泉へ今で言うツーリングに出かけた時には、チェーンが切れてしまい、同行していた久保自転車のトラックの荷台に乗せてもらったこともある。今と違って道が悪かった。
車はその五、六年後、六人乗れるトヨエースのダブルキャブを買ったのが最初だった。買ってなんぼも経たないうちに冬道で滑って、家の近くの沢にごろごろと転がしてしまった。その時は確か馬で引き上げた。馬のいた最後の頃だ。
自他共に認める馬道楽だったという國良さんに、今でも馬に乗りたいと思うことがありますかと聞くと、「思うねぇ」とすぐに返ってきた。
「議会は今期で引退するつもりだから、そしたらまた馬を飼ってみたいと思ってる。馬小屋なんかもまだあるし、うまくいけば安く手に入るとも聞いているよ。」とすっかりその気だ。横で奥さんは、「怪我するからやめてって言ってるんだけどね。」と言いながらもその顔は笑っている。
この機械文明の時代にあっても尚、あらためて馬を飼いたいという熊崎さんにとって、馬は貴重な動力である以上に、苦楽を共にしてきた大切な人生のパートナーなのだろう。(2003年2月取材)