占冠しむかっぷ・村づくり観光協会

2022.02.25

「樺太」

三浦マツヱさん「樺太」

マツヱさんは十人兄妹のバッチ(末っ子)として、昭和五年下双珠別の藤田家に生まれた。大正三年、希望に燃えてこの地に開拓に入った父の宗吉さんは、マツヱさんが生まれる直前に急な病で他界。大黒柱の死という悲しみを乗り越え、母ヲトさんは小さな命の誕生を待ちわびた。待って待ってやっと生まれたので「マツヱ」と名付けた。
 当時、景気の良かった樺太から、葬式に駆け付けた叔父(父の弟)が「十人も子どもを抱えて暮らすのは無理だろうから、私が何人か連れて帰ろう。そして、後でお前たちも必ず来なさい。」と言い、長男、次男、三女を樺太へ連れ帰った。

母の胸に抱かれるマツエさん

昭和十四年マツヱさん九歳、いよいよ一家が樺太へ渡る準備が整った。家や土地は売らずに、隣人に託した。そして、小樽の叔母の元に一週間滞在し、大きな連絡船に乗り込んだ。北海道はおろか双珠別もろくに出た事のないマツヱさんにとって、海を見るのも、船を見るのも初めて。出航の時の五色のテープが舞う勇壮な景色は強烈な印象で、ちぎれたテープを船の中できつく巻いて、大事に樺太へたずさえていった。
 南樺太の恵須取(現ウグレゴルスク)は当時樺太最大の都市で、大規模な製紙工場による活況ぶりは、目を見張るものがあった。家族の生活は、厳しい双珠別とは打って変わって、まさに竜宮城のよう。
 兄の宗夫さんは、当時稼ぎの良かった石炭運搬をやっていた。夏は馬車、冬は馬そりで石炭を運ぶ。質の良い石炭を運ぶと取引先から「次も頼む」と、軍手やタバコなどいろいろなものをもらった。宗夫さんのはっぴは、内ポケットが四つもついた特製のもの。家に帰ると、マツヱさんがはっぴを受け取り、内ポケットからつぎつぎとお土産を取り出す。色々な種類のタバコや軍手は兄に、キャラメルはマツヱさんに、と振り分けてはっぴを所定の場所に掛けておくのが、マツヱさんの楽しい仕事だった。日本人形やハンドバック、日傘など、双珠別では見た事もなかったものが、つぎつぎと手に入った。

樺太にて。平和な頃。

しかし、夢のような暮らしに、暗雲がたちこめはじめる。敗戦の色が濃くなる中、四男と五男は軍隊へ。特に五男の一郎さんは、まだ高等二年(現在の中学二年)を終えたばかりの十五歳。徴兵の対象にはなっていなかったが、志願して兵隊になった。出征祝いの宴の後、母は「お前はまだ十五歳なのだから、何も志願して兵隊になる事はないじゃないか、体も丈夫で志願すれば甲種合格は間違いない。戦地へ行けば命はないものと思わなくてはならない。」と涙ながらに言った。当時兵隊に行くのに反対するのは、非国民といわれる事だったが、息子を思う母の言葉にマツヱさんは強く心を打たれた。
 昭和二十年、終戦間近の八月八日、ロシアが突如宣戦布告し、南樺太への侵攻を開始した。この年の春に兄宗夫さんは一時のつもりで樺太を離れ、戦局が悪化して戻れずに双珠別の家にいた。マツヱさんは母と姉房江さん、義姉(宗夫さんの妻)ヒナ子さんの四人で、戦火を避けて逃げまどう。炒り大豆や米をかかえ、体格の良い母を紐でひっぱりながら山の中を逃げ続けた。
 八月十五日には終戦が告げられるのだが、混乱していた樺太では日本が負けたという噂はスパイによるデマだと思われており、引き続き戦争が続いていたも同然だった。

樺太に渡ったばかりの頃。一郎兄さんと恵須取(えすとる)の家の前で

八月十九日、久春内(現イリインスキー)で満員の汽車に窓から乗り込んだ。ひとつの窓からは入れず、四人が別々の窓からなんとか潜り込んだ。四人を乗せた列車はニ十日の朝、海沿いの小さな丘に囲まれた真岡(現ホルムスク)に着いた。駅に入ると海にはロシアの戦艦一隻が見えた。そして、マツヱさんの目の前で潜水艦三隻が、戦艦の左右と後ろに浮上してきたかと思うと、間もなく、すさまじい音と共に真岡市街への射撃が始まった。
 「真岡の艦砲射撃」ロシアの樺太侵攻の象徴的な事件だ。マツヱさんの乗った列車はまさにロシアの砲撃と日本軍の応戦の間に立ち往生してしまった。多くの銃弾が列車を襲った。海側の窓を荷物を積み上げてふさいだが、反対の窓は丘の上から応戦する日本軍の銃弾にも襲われた。車内は大混乱となり、多くの人が目の前で撃たれた。マツヱさんは大混乱の中でなぜか持っていたおにぎりを必死で食べた。生きたいという気持ちが自然にそうさせたのだろう。母の「みんな集って」という必死の叫び声で、四人は人を乗り越えて連結部分に集まった。義姉の肩が血だらけになっていたので撃たれたのかと思ったら、後ろの女の人が頬を撃たれて布で押さえていた。その血がダラダラと義姉の肩にかかっていた。近くには血だらけの子どもを背負った人もいた。地獄だった。
 しばらくして、ようやく列車は動き出したが、真岡の町外れで止まった。釜炊き(列車に石炭をくべる人)が「機関士がやられたー!逃げれー、逃げれー」と大声で叫んだ。線路沿いに逃げてしばらく行くとトンネルがあった。トンネルの前では何人かに一本ずつ兵隊からろうそくが配られたが、風が強くて役に立たず、だれかれ言わず前の人をつかんで長い列になり、先の見えない程に長く真っ暗なトンネルを必死でくぐった。トンネルを出た所に、なぜかおにぎりが四つ、紙の上に置かれていた。「マツヱ!早く取れ!」と母に言われて、ほかの人と争いながらも慌てて二つ取った。四人で分けて食べようとおにぎりを割ると、納豆よりもまだひどいくらいに腐っていて糸を引いたが、構わず食べた。のどが乾けば前の人が歩いた後の、かかとの穴に出来た泥水を飲んだ。それでもなんともなかった。
 トンネルの向こうには、連絡を受けた迎えの列車が来ていて、荷台の上には四斗樽の水や、身欠きニシンが積まれていた。列車で着いた留多加(現アニワ)では前線の兵士たちと一緒になり、「明日ここは戦場になるから。」と乾パンを持たされて、朝早くに発った。それからも山を越え、川を渡って命からがら生き延びた。
 八月二十八日まで逃げ続け、大泊(現コルサコフ)の知り合いを頼ってかくまってもらっている時、ロシアの兵士が調べに来た。二階に隠れたが、食卓の皿の数でばれてしまい、兵士三人が二階にあがってきた。マツヱさんは恐くて恐くてわんわん泣いた。ロシア人水兵の毛むくじゃらの胸元や手が恐かった。兵士は頭をなで、やさしくロシア語で何かを言った。「そんなに泣かなくても大丈夫」と、言ったのだと思った。この時は何もなく兵隊たちは引き揚げたが、樺太に残された日本人がどうなるのか分からない状態で恐ろしかった。マツヱさんたちは市街から二里入った山中の農家に身を隠してしばらくは過ごした。
 その後、大栄炭坑で働いていた兄の虎夫さんを頼って身を寄せ、ロシアの占領下、ロシア人の役人の家に頼み込んで女中をさせてもらいながら、帰国を待ち続け、三年が経った。

   函館の港に着いたのは、昭和二十三年の秋。十一月九日、母と娘は、実に九年ぶりに金山駅に降り立った。金山は、林業景気でにぎやかだった。旅館に泊まって迎えを待とうかと考えたが旅館は満室。仕方なく金山峠の茶屋くらいまでなら歩ける時間だったので、とぼとぼと歩き始めた。しばらく歩いたところで占冠の方からバスが来た。バスには長兄の宗夫さんが乗っていた。通り過ぎたところでバスを止めてもらい、宗夫さんは二人を追いかけた。「あれ!宗夫でないか?」母の声で振り向くと、バスから降りた兄がこちらに向かっていた。三年半ぶりの再会だ。母の荷物を兄が背負って三人で歩いていると、空のトラックが乗せてくれた。荷台でひと息ついた兄が「ああ、煙草を忘れてきてしまった。」と言ったので、マツヱさんは女中をしていたロシア人の奥さんからお土産にもらった煙草を兄に差し出した。兄は、「こんなとこでロシアの煙草が吸えるとは思わんかったな」と笑った。この時マツヱさんは十八才になっていた。
 双珠別の家には、戦場へ行った兄信夫さんや一郎さんが、負傷しながらも帰っていた。マツヱさんは、この二人の無事を双珠別に帰るまで知らなかった。家族は、また双珠別で暮らしはじめた。
 当時、双珠別には七十世帯が暮らしており、青年団活動も盛んだった。ある日、マツヱさんが参加していた青年団の集まりで、行商に来た人から団の金で梨を買って皆で食べた。後でこの事を知って、烈火のごとく怒ったのが、青年団長の三浦要三郎さん(当時二十七才)だった。「大事な団の金で梨を食うとは何ごとか!」と怒鳴られて、末っ子で可愛がられて育ったマツヱさんはその時、「こんなにおっかない人がいるのか。」と思った。その後二人は顔見知りになり、特別親しいという訳ではなかったのだが、しばらくして、なんとその要三郎さんとの縁談話が舞い込んだ。要三郎さんは大きな農家、マツヱさんは引き上げてきたばかりで財産も何もない。「提灯に釣り鐘」といわれた。マツヱさんは事前に結婚を了承したが、要三郎さんには結納の日までまったく知らされていなかった。「今日は、結納に行ってくる」「誰の結納よ?」「おめえのよ」。そんな時代だった。

青年団長をつとめていた頃の要三郎さん。(中央)

マツヱさんが双珠別に帰ってから一年と少しが過ぎた昭和二十四年十一月二十四日、結婚式の朝、三つ指をついて母に挨拶をした。母は「何もあげられないから」と、鍛冶屋の心得がある兄虎夫さんが作った指輪を形見にくれた。嫁入り支度をすっかり整えて、佐藤竹次郎さんの「嫁送りの歌」で送られ、馬そりで行く。その馬追いは近所の八郎さん。前日の雨がしばれて、てらてら光る細い道を「かやしたらだめだぞー」と気合いをかけられて慎重に馬そりは進んだ。三浦家につくと、今度は「嫁迎えの歌」を阿部倉吉さんが歌ってくれた。結婚式は三日三晩。髪結いさんも付合って、新婦の髪を直してくれる。一晩目は旦那衆、二晩目はお年寄り衆、三晩目は三浦家の招待した人をもてなす。酒はドブロクが四斗樽に二本、なますやきんぴらなどのごちそうが並んだ。マツヱさんにとって、誰のどんな式にも負けない最高の結婚式だった。
 その後、夫婦は一男三女に恵まれ、現在も双珠別で幸せに暮らしている。この五十年で道路は良くなったが、周りに民家は少なくなり、すっかり寂しくなった。息子と二人の娘は村内に住んでいる。「ばーさん息してたかー」と息子が時折訪ねて来る。娘は「父さんの散髪の予約入れたから」と車で迎えに来る。畑では、収穫後はニオにエンバク殻のボッチガサをかけて乾かす、昔ながらの農法で豆を作っている。腰も悪くなったので、最近はもっぱら手のない(ツルの伸びない)豆だ。もう一度樺太へ行ってみたいですか?の問いにマツヱさんは「恵須取は遠いからねー」とだけ答えた。多感な十代に、夢のような体験と過酷な体験を一度にした樺太は、マツヱさんにとって永遠の異国だ。(2003年2月取材)

自宅で古いアルバムを見ながら話すマツエさんと要三郎さん。(2003年2月)

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