「鬼峠を越えて」
岩渕ハナさん「鬼峠を越えて」
「私も苦労したけど、子どもにも苦労させたの。今は子どもらは、これがみんな親孝行だから、感謝してます。長生きさせてもらって、あったかいところに置いてもらって。幸せだよ。」
「苦労したからありがたさがわかる、苦労しないと愛情もないから。」苦労をしたと話すハナさんの言葉には、感謝の気持ちにあふれている。
現在村の最高齢者であるハナさんは、明治四十一年生まれ、九十五歳。砂川市で生まれ、子どもの頃に山仕事を求める父に連れられて、当時造材の盛んだった占冠にやって来た。土地をもっていないので、村の中を転々と移り住む生活だった。
十三歳で女工の募集に応じて静岡の紡績工場で働いた。海を見たことがないという人がいた時代の占冠で、海を渡って本州へ行くことは珍しいことだっただろう。それまで米など食べられなかったからだろうか、白いご飯の出る工場の大きな食堂の風景を印象的に覚えている。三年ほどで帰ってきてからは、中央にあった山辺医院の先生の家に女中に入り、宮下からニニウの岩渕勇さんのところへ嫁いだのは十九歳の時だった。
「ニニウへ行くのにね、それこそ車もないし、わらじを履いて山に入って行ったの。それでも結婚式の真似事くらいはあったの。久保さんのばあちゃんに髪結ってもらってね。」
悪路と名高い鬼峠さえまだない頃で、ニニウ、中央間の道は、道をつけたのではなく歩いたなりに踏み分けられたというような、越える時にはあまりの足場の悪さに馬から落ちたり、また馬ごと転がしてしまったりするような道だった。
「子どもがお腹にいる時も落ちたの、どーんとね。でも何ともなかったよ。その時の息子、今富良野で元気だわ。」とハナさんは笑った。
家で出産するのが普通だった。当時の占冠には、きちんとした産婆さんなどいなかったので、ニニウの辺りはみんな、取りあげばあちゃんと呼ばれた植田さんにお世話になった。またハナさんが立ち会い、お産の手伝いをしたこともあった。「ああいうところにいたら、みんな助け合うもの。」だった。
「あんまり覚えてないもんねぇ。」とハナさんは困ったように繰返した。でも、「先生の名前だけは覚えてるの。」という。通っていた字占冠の小学校の、床が上がったり下がったりするようなガタガタの教室で、一生懸命に九九を教えてくれた植村先生。習ったのはもう九十年近くも前のことだが、今でも「もう亡くなられてはいるんだろうけどね、そう分かっていても、どうしてるかなーと思うことがある。」のだそうだ。(2003年2月取材)